「私」というプラモデルを解体する
最近、私は「文章を書くこと」に無心になっています。
それは、
誰かに見せるための物語でも、
役立つ知識でもありません。
(そんな文章をいつかは書いてみたいものです🥹)
今日起きた出来事に対して、
自分が何を思い、
どう感じたのか。
そんなことをただ、素直に書き出すだけの作業です。
腹が立ったこと、
こらえきれず笑ってしまったこと、
自分の意地悪さに嫌気がさしたこと……。
書き進めるうちに、
私は不思議な感覚に包まれていく。
そこには、
損得も、
将来の計画も、
過去の執着もない。
ただ、
ありのままの自分と対峙する「無心」の時間だけが流れています。
この「無心」になれる時間。
若い頃なら「ムダ」と切り捨てていたと思う。
でも…
50代になった私にとっては「贅沢な時間」なんです。
振り返れば、これまでの私は「量産型」の人間でした。
相手の好みに合わせて組み立てられ、
望まれる色を塗られる。
要は
相手の望みに合わせて、自分を変えることしてきた。
「好かれる」という報酬と引き換えに、
私は自分らしさというパーツを
一つずつ捨ててきました。
それってまるで大量生産されたプラモデル。
代わりなんていくらでもいる、
大量生産されたプラモデル。
それが私でした。
でも、今
こうして自分の思いを書き出し、
その思いに対して
さらに自分の思いを重ねる。
そんな「対話」を繰り返す中で、
ようやく私は、
自分という人間に出会い直しています。
「ああ、私ってこんな人間だったのか」
カッコつけることも、
媚を売ることもやめた先に残ったのは、
たった一枚のカード。
「自分は自分でいられる」
という、
不器用で、
でも確かなカードです。
派手な夢や大きな理想を語る必要はありません。
年齢的に、そんなものを語るべきでもないでしょう。
量産型の外装を脱ぎ捨てて、
むき出しの自分でいられるのなら、
それで充分なんです。
そのたった一枚のカードがあれば、
私の後半戦は、
それだけで充分に贅沢なんです。
